2012/1/1〜6
1月1日
宿泊:humpで2泊
長距離バス停は中心部から大抵離れている。昆明の場合もバスを降りた場所の周辺には何もなく、ホテルなどがある中心部まではタクシーだと40元=500円から100元=1200円と言われたが、良く見たら公共バス停が近くにあり2元=24円で行けた。
気温は冬から秋になったくらい暑い。東南アジアに近いだけのことはある。この日はホテルにチェックインした後は外出しなかった。
フロントの人がお茶をくれたので中国語で美味しいと言ったら言い方が違うと直された。後で調べたら昆明のような南部では訛りがあって標準語とは違うらしい。
*円換算は当時のレート1元=12円計算。2015円現在は元高円安が進んで1元=20円。今行くと私が旅したときと比べて倍近いお金がかかることになります。
1月2日
中国のユースホステルには必ず卓球台とビリヤード台がある。朝一人で食事をしていると中国人宿泊者に卓球をしようと誘われたが、断ってバスで昆明を散策した。あまり興味が沸くような場所もなかったので翌日大理へ移動することにした。だから昆明の写真もありません。
昆明で一番印象に残っているのはある有料トイレに入った時に、そこの管理人の家族5人が食事中という場面に出くわしたことだ。トイレの入り口のスペースで椅子と机で手作り料理を食べていた。
中国では日本より遥かに汚いのに有料トイレということがある。金額は数円だからまあ大したことはないのだが、無料で綺麗な日本のトイレが恋しくなる。
1月3日
大理へは電車で移動した。中国の電車は値段の高い順に軟臥・硬臥・軟座・硬座と4種類ある。臥というのは寝台列車のことで、座は椅子のこと。軟と硬の違いはベッドが広いか狭いかと椅子が軟らかいか硬いかの違い。私の場合は軟臥以外は全部経験した。席が一杯になることが多いのでその時余っているチケットを選ぶ感じになる。
この時は硬座。硬座にもいろいろあるが、今回は寝台列車の下のベッドを椅子代わりにして4人が座るようになっていた。荷物は上のベッドに置く。
一人陽気なギター弾きの青年がいて、私達の席だけカラオケ状態になった。一人のおばさんと若者7人は皆一人旅だったのですぐに仲良くなり、私は黒縁メガネをかけたら汪涵Wang Hanという中国人俳優兼テレビ司会者に似ていると言われた。
英語が通じなかったので単語やジェスチャーだけでの会話だったが、ちゃんとコミュニケーションとれるから面白い。
大理駅から城壁に囲まれた大理古城の近くまでバス移動。そこで宿探しを始めるとすぐに客引きのおじさんに捕まった。自分だけで探した方がお金はかからないが、右も左も分からないので予算だけ伝えて宿探しを任せた。
宿泊:MCAで3泊(最初1泊100元1200円と言われたが出て行こうとしたら80元960円に下がった。念願の風呂付きで涙が出るほど嬉しかったが、故障で冷水しかでないことがわかり悔し涙に変わる。外は真冬の寒さで滞在中には氷が降る日もあった。)
チェックイン後に客引きおじさんが待っていて、何故か一緒に晩御飯を食べることになり、勝手に何品も頼まれ(一品でもお腹いっぱいの量)おじさんはがんがん食べてお会計を全額払わされた。恐らくこれも案内料の一環なのだろう。
1月4日
この日は大理古城内を食べ歩き。イングランド人のお爺さんが経営するベルギーワッフル店、見た目はたこ焼きでもたこじゃない何かが入っているたこ焼き店、日本語で鶏の照り焼きと書いてあるメニューを頼んだら鶏と野菜の煮物が出てくる日本料理店など。海外ではたまにこうゆうメニューと実際の料理が間違えてる日本料理店に出くわす。
因みに中国ではチャーハンには基本卵は入っていない。卵チャーハンは独立したメニューになっている。そして回鍋肉に味噌とキャベツは入ってない。餃子は基本水餃子。日本の中華と中国の中華はかなり違うのです。
←中国の回鍋肉。
大理古城の中か外かは忘れたが、路上に食材も厨房もある中華屋さんがあった。カラフルで美しく感じた。
1月5日
大理古城最終日、迷いながら苦労して乗り心地の悪いレンタサイクルで苍山を登り、ケーブルカーに乗ろうと思ったらなんと今休業日。係員から冷たく追い返された。大理の観光地である湖や山に全部レンタサイクルで行く計画だったが、山登りに時間が掛かり過ぎ他は一つも行けなかった。ケチらずに観光ツアーに申し込むべきだった。
大理古城はペー族(白族)が建設し、大理石の産地であり大理石の語源となった町だと帰国してから知った。中国の少数民族が作る町は何処も美しい。
1月6日
大理古城からバスで麗江古城に移動。麗江古城は麗江市の旧市街地。ナシ族によって建設され、1997年に世界遺産に登録された街だ。海外を長く旅していると、行った先の当たり外れが出てくる。この麗江古城はそれでいくと大当たり。私が中国内を訪れた中ではコロンス島と並んで素晴らしい場所だった。自信を持っておすすめできます。
夜の麗江古城
宿泊:泰和客棧
麗江古城内で宿を決めた後、夜の街並みを夢中で撮っていたら、一人の中国人青年が自分の写真を撮ってくれと声をかけてきた。不思議に思いながら撮ってあげると、私のことも撮ってあげると言う。この時カメラを渡してしまったのが失敗の始まりだった。
彼は何回もシャッターを押してカメラを離そうとしない。カメラが好きだから一緒に宿へ行くからそれまで撮らせてくれと言う。悪い人には見えなかったのでそれを承諾した。この時はまだ単なるカメラ好きだと思っていた。
ところが彼は私の宿に着いてもまだ返そうとしなかった。お互い片言の英語なので長々と話すのが面倒になって、つい君のホテルまで一緒に行くからそこまで使って良いと提案してしまった。こういう優しさは時として仇となる。
私の提案を了承し一緒に歩き出したが、どんどん人通りのない方へと歩いて行く、街の外れの誰もいない場所まで来て、彼は道に迷ったと言ってきた。この時点でようやくこれはやばいと悟った。周りに人影はなく、時間は深夜0時を過ぎている。ここまで気付かなかったのは相当なお人好しだ。
何かやばいことが起こるかもしれないという恐怖に襲われたが、50万相当のカメラとレンズを奪われる訳にはいかない。死ぬ気で取り返すと腹をくくった。帰るから返せと強い口調で言ってみたが離さなかったので、相手の腕を掴んで無理矢理引っ張るとすんなり彼はカメラを離した。暴力に訴えるつもりはなさそうだ。
取り返すと同時に早足でその場を逃げ出したが、彼はお金を出すから売ってくれと言いいながら私の部屋の前まで付いて来た。終始無視して部屋に入り、鍵をかける。しばらくドアの前にいて何か言っていたが、やがていなくなった。
人気のない暗がりに行った時点で、彼が本当の悪人なら力づくで奪われていてもおかしくなかった。カメラが好きなのは伝わってきたし、見た目が全く悪人に見えなかったから油断してそこまで行ってしまった。
せっかく麗江古城を気に入って高揚していた気持ちが台無しになり、最悪の気分だった。しかも翌朝、再び彼は部屋の前に現れるのである。
〜続く〜
宿泊:金殿旅館
29日、宿を移動する。次に見つけた宿は家族経営で、猫がフロントにいたりとアットホームで居心地が良かった。しかし暖房が全然効かなくて、夜寝るときは外と同じ格好で布団に入らなければならなかった。
宿泊:恵城招待所
30日、湖南省長沙市にある岳麓山に登ってみた。山のふもとには中国四大書院の一つである岳麓書院がある。書院とは中国の昔の高等教育機関で、現在は建物は観光地になり、近くに建てられた湖南大学が教育機関としての意志を受け継いでいた。
岳麓書院は作られてから約千年経っており、建物は教学(授業をする所)、蔵書(本を収蔵する所)、祭祀(祭りを行う所)、園林(観賞用の庭園)、記念(記念の建築)という五つの部分で構成されている。修復作業をきちんとしていて保存状態が良かった。中々素敵な場所だった。
山にはリフトでも登れるようになっているのだが、スノボが好きで雪山のリフトは平気な私でもこれは怖くて無理。
建物内には宗教を感じさせるものも多く、お坊さんらしき人もいた。写真の若いお坊さんが熱心にスマホを操作しているのが面白かった。
12月の終わりだったので紅葉は終わっていたが、落ち葉を見る限りきっと紅葉シーズンは見応えがあるだろう。
この辺りは他に中南大学もあって、全体的に学生街という感じだった。夜の帰り道、屋台が並ぶ通りで楽しそうに学生達が騒いでいて、一人で歩いてる私は寂しくなった。どちらも中国のトップクラスの大学なのできっと皆優秀なんだろう。寒さと疲労で風邪気味になっていたのもあって、ちょっとセンチメンタルな気持ちで宿に戻った。そういえば蘇州のイブの夜と同じ状況だな(笑)
31日、長沙を発って昆明までバスで行くことにした。宿の娘のツァンツォンファンに頼むと全部の手配をしてくれてバス停まで私を連れていくよう案内人まで呼んでくれた。2泊しか泊まらなかったがずっと親切にしてくれ、私とそんなに変わらさそうな年齢で自分の子供と一緒にフロントで働いていた。泊まった宿のスタッフで今でも覚えている人はほとんどいないが、彼女のことは未だに覚えている。
寝台バスは15時半に出発したが、なんと山道の途中で故障して止まってしまう。修理に数時間かかり、晩御飯を食べれたのは23時。しかもバスの一番前が喫煙所になっていて、私のベッドも一番前、つまり風邪の身体にタバコの煙を浴び続けるという地獄のような移動になってしまった。バスの中で新年を迎えたが、時間とともに体調が悪化して、それどころではなかった。
昆明に着いたのは翌日12時。実に20時間以上の辛いバス移動だった。
2011/12/12~27
今は2014年。上の日付は何かというとこれから書く旅の実際の日付である。私のブログは全くリアルタイムには書いてなくて、今までは日付をその時のものにして誤摩化していた。しかし前回ようやく1度目の長旅を書き終わり、今回から2度目の長旅の話になるので、これを機に更新日を正直に書く事にした。
前回の旅では船で中国に行き、電車とバスで南下して東南アジアを回った後、飛行機でマダガスカルまで行って帰国した。
今回の旅のスタートは茨城空港。春秋航空を使ってまず上海へ行く。そこから中国一周する予定だ。
初のLCCだったのだが、チェックインで早速洗礼を受ける。春秋航空では手荷物と預け荷物合計で15kgまでで、超過1kgごとに1500円取られると言うのだ。私の荷物は17kgを超えていたのだが、あらゆる手段を駆使して何とか15.8kgまでにし、最後はパソコンの重さをおまけしてくれて超過料金を払わずに済んだ。
乗ってからも前後の距離が近過ぎて背もたれを倒すスペースがなく、3時間半良い姿勢を保たなければならなかった。それでもやはり飛行機は早い。船の時は48時間かかった。
上海に住んでいる後輩の家に1泊し、翌日電車で蘇州へ向かった。今回再び中国に来た理由の一つが前回の旅で出来た中国人の友人と再会することで、どうせならクリスマスに会おうという理由で12月19日に日本を発ったのだ。友人は蘇州に住んでいた。
私としては1週間程蘇州にいて、友人といろいろ行くつもりだったが、カフェで働いている友人はあまり休みがとれなかった。そのため一人の時は日中街中を散策し、夜はカフェで時間を潰した。
宿泊:蘇州桃花䲧国際青年旅舎←青年旅舎は中国語でユースホステルの意味
行くまで知らなかったが、蘇州はベネツィアと同じ水上都市だった。意外?にも水路に太陽光パネルがあった。
蘇州の観光スポットの一つである北寺塔に登ると街を一望出来た。上から見ると家の色や作りがほとんど同じだと分かる。
迎えたクリスマスイブ、何と中国銀行の銀行員達がカフェを貸し切りクリスマスパーティーをするという。当然友人は一日それにかかり切り、しかも貸し切りだから私はカフェにいることができない。蘇州の街で独りでイブの夜を過ごさなくてはならなくなった。気にしないでって感じを装ったが、内心は泣きそうである。宿に戻ったってドミトリータイプで男4人(私以外は中国人)と同部屋。まだ外を歩いてる方がマシだと思いカメラを持って何時間もイブの夜の街を歩き回った。
コスプレ撮影会に遭遇
大きなデパートの前にクリスマスツリー。
ちょっとコストダウン感が出てますが・・。
お父さんお母さんは子供を座らせたり立たせたりして写真をたくさん撮っていたが、この子はずっとこんな感じでつまらなそうに下を向いていた。それが面白くてしばらく観察していたけど、最後まで機嫌が直る事はなかった。
路上で子犬が売られていた。クリスマスプレゼントに買う人がいるのだろうか。でも大勢の人が行き交う街角のこんな小さなスペースで折り重なって置かれて、何となく虐待に思えた。寒そうな気もしたし、顔を隠している子犬が多かった。皆触るだけで買って行く人はいなかった。
一晩歩き回って、中国のクリスマスイブの夜の様子は概ね日本と変わらないなと感じた。カップルや家族が楽しんでいる中、独りで街を歩き回るのは寂しさもあった。しかし異国だとそれも楽しめてしまう所がある。
結局蘇州には予定通り1週間滞在し、12月27日に友人に別れを告げてバスで長沙へ向かった。